アート

【画家紹介】エドワード・ホッパー

 

今回は20世紀のアメリカの画家、エドワード・ホッパー(1882~1967)をご紹介します。

エドワード・ホッパー 自画像 1925ー30年

エドワード・ホッパーとはどのような画家?

20世紀アメリカの具象絵画を代表する一人です。
「アメリカン・シーン(注1)絵画派」という写実主義の代表的存在として認知されているものの、本人はそれを意識したことはないと述べています。

*(注1)アメリカン・シーン
・・・1920年代~30年代のリージョナリズム(地方主義)運動は、第1次正解大戦後に顕著になった動向。アメリカ的な主題や、アメリカ美術の自律性が強調されているもの。

 

ホッパーの経歴

 

 

『線路わきの家』エドワード・ホッパー、1925年

エドワード・ホッパーは、1882年7月22日、ニューヨーク州ナイアックの中流階級の家に生まれました。
商業美術の学校に進んだ後、18歳でニューヨーク美術学校(New York School of Art)で絵画を学びます。アシュカン派(ゴミ箱派)の指導的画家であるロバート・ヘンライに教えをうけ、アメリカの写実的描写はその影響とされます。
卒業後の1906年~1910年はヨーロッパへと旅立ち、パリでモネやセザンヌら印象派に強い影響を受けますが、アメリカに戻ったホッパーはその後北アメリカを離れることはありませんでした。
1915年にはエッチングとイラストレーションに転向しますが、1930年には水彩画と油彩画を再開。
1925年に制作された『線路わきの家』はホッパーの最初期の連作の一つで人気を博し、その後の彼のスタイルを決定づけました。

1967年5月、ニューヨーク州マンハッタンにて84歳で死去しました。

ホッパーの思想  ~同時代の写実主義絵画の画家たちとの違い~

「アメリカン・シーンというものを、私は決して試みたことがない」

ホッパーは、自身がリージョナリズム(地方主義)の作家であるとされるのを拒否しており、彼ら(リージョナリズム)の仕事のほとんどについて良いとは思っていませんでした。

「アメリカン・シーンというものを、私は決して試みたことがない。(中略)私の対象はいつも自分自身だった。(中略)アメリカの特性というものは画家の中に存在する、つまり、それを求めて努力することはないのだ」

ただし、アメリカン・シーンの概念とホッパーの芸術の間にある共通点が見られることは事実でした。
〈共通点〉田園的モティーフ・アメリカらしい小さな町の情景に焦点をあてること
〈違い〉 ナショナリズム・「アメリカが一番」という、単に地方性や国民性を訴えるもの。

ホッパーの絵画のテーマ  ~何を描こうとしたか?~

 

「人間を描かずに、人間を描く」

 

『海辺の部屋』エドワード・ホッパー、1951

ホッパーは、人間の状態そのものへの興味がありました。
事物を正確に観察することで、彼自身のある時代においても普遍的な人間の状態を示すものがあることを発見しました。

しかし、彼にとって人物を表現するために必ずしも人間の姿を必要としません。
「たぶん私はあまり人間的ではないのであろう。私がやりたいことは家の側面に当たる太陽の光を描くことだった」と本人は述べていますが、ホッパーの絵においては、何もかもが人間と関連しています。

おそらく、かつてジョルジョ・デ・キリコが言った言葉と同じように考えていたのではないでしょうか。
「過去・現在・未来のあらゆる宗教よりも、陽が当たる中を歩く男の影にはもっと多くの謎がある。」

「心の奥に感じた自然」を描く

『線路の夕日』エドワード・ホッパー、1929年

ホッパーは、自らの絵画は「心の奥に感じた自然」の知覚を、正確に置き換えたものであると記しています。

同時代の大部分の画家が知的な思いつきだけを絵画にしているが、そこには心から感じるものは何もなく、自身は「想像力から生まれた着想」が本物の絵画であると考えていました。

 

ホッパーの絵の描き方  ~構想・構成の方法~

「モティーフを見つけて、変容させる」

『コッド岬の夕』エドワード・ホッパー、1939年

①モティーフを見つける

エドワード・ホッパーは、
「自分の心の琴線に触れ、強い感情を呼び起こし、それをカンヴァスに蘇らせたいという衝動を感じさせるようなモティーフ」
を一貫して探求してきました。

それをいったん見つければ、それが持つ可能性をいろいろと試すことができたのです。
それは何か見応えのあるような劇的なものである必要はなく、ただ「本物」であれば良かったのです。

②モティーフを変容させる

あるモティーフに決めたら、それを変容させていきます。
いろいろな背景や別のモティーフから拾い集めたディテールと組み合わせてみたり、本質的なモノだけに切り落としていったり、彼の内にある感情や感覚にできるだけ知覚表現できる形に到達するまで続けました。
ですからホッパーの作品には、一つの作品に対して数多くのスケッチが残されているのです。

*モチーフの変容について、ホッパーはエドガー・ドガの言葉をよりどころとしています。

「目に見えるものを描写するのはすばらしいことである。記憶にとどめたものを絵にするのは、さらにずっとすばらしい。想像力と記憶が結びついて働くとき、変形が生ずる。人は、やむを得ないもの、つまり必然的なものだけを再生する。このようにして個人の記憶は他ならぬ着想として、自分の専制から解放されるのである。」

彼の成した素晴らしい成果とは?

「どの視覚的要素も暗示に満ちている」

『ナイトホークス』エドワード・ホッパー、1942年

絵画というステージ上の幾何学を徹底的に簡素化し非常に正確に構成したので、描くディテールがそのほかの部分と関連し合い、「どの視覚的要素も暗示に満ちている」と思えるような集まりを生み出すことができました。
「出来事不在の劇」をのぞき見ているような気分にさせられます。

ホッパーは1950年代半ば『タイム』誌で、「沈黙の目撃者」と称せられています。

円熟期のホッパーの苦悩

 

「より大きな努力が必要になり、難しくなる」

 

時がたつにつれ、このように試行錯誤して描く絵画制作はホッパーにとってより大きな努力が必要になり、ますます難しくなってきます。

表現に値するモティーフをみつけるには長い時間がかかりましたし、それに合うフォーマット、色調、バランス、光を調整するにはさらに時間がかかりました。
それなのに結果としては自分が心に抱いていたものとはかなり違うものになってしまうことが多いとホッパーは述べています。

ホッパーのこだわりのある描き方は、相当大変な仕事だったことがうかがえます。

 

 

 

参考文献

ロルフ・ギュンター・レンナー(2001)『エドワード・ホッパー』(タッシェン・ニューベーシックアートシリーズ)国際コミュニケーションズ.

ヴィーラントシュミート(2009)『エドワード・ホッパー アメリカの肖像』(岩波アート・ライブラリー) 光山清子訳,岩波書店.